法務省・厚生労働省合同検討会
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文・つかもとまさじ
<はじめに>
こんにちは、つかもとまさじと言います。精神障害をもつ当事者です。今分科会と私のスケジュールが時間的にぶつかってしまっており、今回は文章にて話題提起をさせてもらいます。
私は、拘置施設で精神疾患を発病し、病をもった状態で懲役生活を送りました。一言で言えば、「自分なりの生き地獄」を体験した一人の当事者として、ムショの非人間的処遇や精神障害者のおかれている状況を話させてもらいます。 なお私は法務省による「保安処分施設」構想や厚生労働省による「処遇困難者病棟」構想には反対の立場であり、現在おこなわれている法務省と厚生労働省の「話し合い」についても、疑問と危倶の感情をもっている事を述べておきます。<発病>
私は1987年2月より千葉刑務所拘置区に拘禁されました。独居処遇です。面会も手紙も一日一回とされておりました。弁護士面会以外の面会時間は、分厚いプラスチックを隔てて15分あるかないかでした。この面会時間の短さは、私が精神疾患を発病してからも変わりませんでした。手紙も検閲されるため、精神疾患を発病し本当に苦しくもがいている気持ちを手紙に書く事などできませんでした。
独房の中で、常に小机にむかって同一姿勢をとっているかどうかを看守は常に監視し、外に出られると言えば、週に3回・20分程度の通称「鳥小屋」と呼ばれる畳三畳ほどの「運動場」に一人きりでした。その「戸外運動」も天候の悪い日には冷酷にも中止になってしまいます。週に3回、入浴がありましたが、時間は15分で、私などは体調が悪く、気分転換をしたいと思っても、看守に「入浴3分前!」「入浴1分前!」と急がされ、それどころではありませんでした。
私は病気になった自分を責めました。そうすればするほど、眠れなくなり、焦燥感が強くなり、夜明け前には「死にたい」という気持ちにとりつかれるようになりました。
「なぜ私は病気になってしまったのか」そんな事ばかり考えていました。1987年年末、体調の不調を看護士に訴えた時の看護士の冷たい対応一「こんなところにいるとそんな病気になるんだよ」という言葉に今になってみれば、だまされたと憤りを感じます。心療内科の獄医も同じ事をくりかえしていました。でもその時は「私は生きてここを出れるのか」と不安で心が萎縮していて、その者たちの詭弁を信じ込んでしまいました。
1989年4月、病舎に移り、6月「病気治療のための拘留の一時執行停止」を裁判所が決定し、私は東京のF病院で約2ケ月入院し、以後大阪にもどり京都のI病院に通院し、治療に専念しました。<実刑と懲役生活>
未決・既決合わせて、私の獄中生活は3年7ケ月です。その中で病をもって送った期間は約2年5ケ月になります。未決算入600日を入れて約1年2ケ月の懲役生活を横浜刑務所でおくりました。1991年4月から1992年6月までです。
医療はひどいものでした。精神科医との問診の場に看護士が同席し、「ああだ、ここだ」としべりたくり、精神科医の最後に一言「じゃ薬をどうしたいのか」と切り出し、診察は終わります。精神疾患をもって受刑生活をおくっている当事者の不安を聞こうとする姿勢もないし、だから私は、今の自分の状態を大きくしゃべるしか彼らは聞く耳をもちません。そしてその診察日の夜から、薬の量がグーンと増えるのです。翌朝、足も腰もフラフラです。しかし懲役をのがれる事はできませんでした。だいいち医者の診察を受けにいくのに、なにゆえ「イチ・ニイ・イチ・ニイ」と軍隊行進をして診察棟にいかなければならないのでしょうか。
「昼夜独居」の中で体調を崩し、「このままで生きてシャバにでれるのか」という不安も強く、なんとか工場に出れるよう、何度も教育課とかけあいました。1991年の7月頃から「通称・第三工場一金属工場」に出る事になりました。「夜間独居」と呼ばれるものです。舎房から工場までは軍隊式駆け足で、そして裸になり「カンカン踊り」をし、工場服に着替えます。
私は薬の影響もあり便秘がひどかったので、就寝前には就寝薬と便秘薬をのんでいました。工場部長のつまらぬ説教も終わり、仕事机につく頃、いつも激しい差し込みが襲ってきました。しかし工場には「用便禁止時間」というのがあるのです。工場内の正面に真っ赤な「用便禁止ランプ」が就業開始から約30分間は灯っています。看守がそれを消し忘れる事もしばしばあります。
私はこの事を当時月に一度しか出せなかった手紙に書きました。「服役前にうんこを5分間我慢できた人間が30分間我慢できるようになったからといって、一体何の社会更生なのか」と一一一。すると当局から手紙の書き直しを命じられました。刑務所はあくまで塀の中のようす一自分たちの不都合な事は、外には知られたく・知らせたくないのです。世間も「あそこは悪い事をした人たちの収容施設だから、当局や看守による多少の人権侵害があってもあたりまえ」と思い、その実態を知ろうともしません。
入浴時間は10分間でした。薬の副作用もあり、動きのしんどい私にとっては週2回の入浴はとても苦痛でしたし、冬には入浴すると必ず風邪をひいていました。警備隊の厳重な警備の中で風呂に入るというのは、入浴というイメージではありません。食事はひどいもので、私は工場の食堂で昼飯を食べる時、はじめはなぜ他の懲役のおっちゃんたちは、あんなに食べるのがはやいのか、いやむしろどうして噛まないで飲み込むように食べるのか、疑問に思っていました。しかし2ケ月後には.「こんなもの人間の食えるものじゃない。犬や猫でもいまどきこれよりいいものを食っている」憤りながら噛まないで食べている自分の姿がありました。
月に一度、通称・玉検(たまけん)というのがありました。懲役のおっちゃんたちの中に、自分のペニスに真珠ではなく、刑務所の歯ブラシのプラスチックの部分を細工し、自分のペニスに差し込んでしまう事を防止するというのが、当局の理由です。懲役囚は一人一人看守にペニスを見せて、看守は差し込まれている玉の数を数え一覧表に記入していくのです。玉の数が増えていれば、当局は懲罰を科するのです。もうここまでくると感覚が麻痺してしまって、恥ずかしいとかそんな感情は薄れていきました。そこには玉を調べる立場にある看守も、調べられる懲役囚も、人間の尊厳とかいうものは奪われていくものだと思いました。
私は「ちり紙の不正授受」という名で懲罰を受けた事があります。「不正授受」というと何かしらとてつもない事をしでかしたように聞こえますが、何の事ない風邪をひいて鼻水の止まらない私に、工場の後ろの机のおっちゃんがちり紙をくれて、私がそれを受け取ったという、親切な行為が「不正授受」の内みです。懲罰で私もおっちゃんも作業賞与金から500円もの罰金を取られ、等級の降下というはめに会いました。
懲役囚がとても強いストレス状態に置かれているので、工場内での喧嘩は日常茶飯事でした。工場において看守が懲役囚を一元管理できないので、やくざがその補完をおこなっていました。一番弱い立場なのは、かたぎの一般刑事囚です。
ここまで述べてきて、「これがほんとに社会更生施設?」とみなさん思われる事でしょう。11回目の懲役生活を送っていたやくざのおっちゃんが、ふと私にこんな事をいいました。「兄ちゃんなぜ俺はムショではまじめに務めれるのに、シャバではダメなのかな」。<矯正医療と自由刑の罪>
受刑者の発病率は知りませんが、精神疾患をもっている者は少なくないと感じます。拘禁そのものが、精神的・肉体的な強いストレスだからです。しかし、拘禁下の精神障害者を全体的に制約するのは「監獄法」と法務省からの膨大な通達であり「精神保健福祉法」ですらありません。
発病した受刑者をまつものは「矯正のための医療」であり「治療のための医療」ではありません。だから精神疾患をもつ受刑者は多くが、「昼夜独居処遇」に置かれている状況があります。
近代刑罰の最終地点である「自由刑」は精神障害者に苦しみだけをもたらします。
日々死との葛藤。なぜなら「昼夜独居拘禁と沈黙労働」は現実に生きている人間の存在を抽象化してしまうからです。「自由刑」と「矯正医療」の発見、そして過去から現在の刑事施設のあり方は、人間の尊厳に対する罪であると感じます。
しかし今さら「身体刑」や「仇討ち」にもどる事もできません。
現在の刑事施設のあり方を根本から変える視点なくして、また一方で隔離・収容を旨としたきた精神医療のあり方を根本から変える視点なくして「触法精神障害者の処遇」なる論議は、刑事施設専門家、職員・精神医療専門家、職員が犯してきた罪に自ら唾を吐きかけているようなものだと痛感します。
弁護士や後見人等が、そして人権感覚豊かな市民がオブズマンとして刑事施設の扉を開かせていく以外ないものだと思います。
法務省・厚生労働省合同検討会
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