わが国における精神科救急医療システムについての提言


1999年9月17日         
  日本精神科救急学会 医療政策委員会
1.はじめに
 精神科に限らず、医療の普遍的目標は、病む人の苦しみを速やかに軽減し、その効果を持続させる
ことによって、個人の社会生活の維持に寄与することである。すなわち、医療には迅速性と継続性が
要求される。また、医療の継続性と一貫性を保証するのが医療の責任性である。救急医療システム
も、医療の迅速性に加えて、継続性と責任性を兼ね備えた一貫したシステムとして構築されなくては
ならない。
 そして、精神科における救急医療も、この原則に従うものであることをまず確認しておく必要があ
る。行政あるいは法が、精神科救急システムを論ずるとき、とかくこの原則が後回しにされやすいか
らである。
 
2.精神科救急医療システム整備事業の問題点
 国は、1995年からの4年間で、全国に精神科救急医療システムを整備するために、「精神科救急医
療システム整備事業(以下『厚生省指定事業』)」に着手した。この事業を運営する自治体は、1999
年4月現在、38都道府県に及び、今後数年内には、全国にあまねく普及する見通しとなっている。 
 夜間休日に迅速な精神科医療サービスを提供しようとするこの事業は、その基本的な意図において
は、わが国の精神科医療の向上に資する可能性があり、速やかに全国展開されてしかるべき事業であ
る。しかし、精神科医療の実情が地域によってあまりにもばらついているためか、都道府県の運用実
態はまちまちであり、システム全体としては、いまだ総括的な評価を下すべき段階には至ってはいな
い。
 ここではまず、厚生省指定事業の実施要綱そのものがもつ問題点を指摘する。
 
(1)緊急措置入院ケースに関する規定がない。
 神奈川県や大阪府では、措置入院ケースは「緊急医療」、それ以外のケースは「救急医療」という
別立てのシステムで対処している。厚生省指定事業は、専ら「救急医療」事業について規定している
が、行政の責任としては「救急医療」よりむしろ「緊急医療」の方が先だと考える都道府県が多い。
 
(2)精神科救急医療施設のばらつきが大きい。
 実施要綱では、精神科救急医療施設は「精神保健福祉法第19条の8に規定する指定病院」であるこ
ととなっているが、指定病院の診療能力はまちまちである。また、指定病院以外でも輪番に組み込ま
ざるをえない自治体もある。
 
(3)経済給付が一般救急医療に比べて低すぎる。
 精神保健指定医の当直料をとっても補助額は実勢にあわず、一般科の救急輪番への補助と比べては
るかに低額である。また、初期評価に重要な役割を果たす電話相談窓口(精神科救急情報センター)
への補助がない。
 
(4)警察による搬送に触れないなど、搬送体制について不備がある。
 実施要項は、警察による搬送に言及していない。警察官は、警察官職務執行法第3条の職務権限、
あるいは市民サービスとして搬送しているが、後者については、搬送の要否を判断する基準がはっき
りしていないので困ることがあるという。救急隊は、身体的に緊急性のある場合には、精神障害者も
搬送対象と考えているようであるが、搬送途中の不測の事態を危惧する声が根強くある。
 公的な緊急搬送機関におけるこうした当惑を穴埋めするように、現実には民間警備会社による搬送
が行われ、人権擁護や事故責任の観点から問題視されてきた。搬送問題は、今回の精神保健福祉法改
正の目玉ともなっているので、のちに詳しく論述する。
 
3.精神科救急システムの質を規定する諸因子
 精神科救急システムの運用実態が、自治体によって大きくばらついていることは先に述べたが、そ
の要因として、以下のような諸因子が考えられる。
 
(1)地域特性因子
 同じ精神科救急システムといっても、基盤となる地域社会の人口や産業構造によって、運用実態は
大きく異なる。すなわち、大都市圏、地方都市、郡部によって、精神科救急医療の必要性とシステム
のあり方は自ずと異なる。
 
(2)医療資源因子
 精神科医療・福祉に関わる社会資源は、精神科救急システムのあり方を大きく規定する。具体的に
は、以下のような下位因子があげられる。
(a)精神科病床分布
(b)総合病院精神科の配置と救急への取り組み
(c)精神科リハビリ資源や社会福祉資源の分布
 
(3)救急システム因子
 精神科救急システム自体の因子としては、以下のような項目が考えられる。
(a)システムの稼働時間:全日か、夜間および休日の全時間帯か、さらにその一部時間帯か
(b)電話相談窓口:設置場所および固定・輪番の別、対応職員の職種と常勤・非常勤の別、トリアージ
ュ機能の有無など
(c)救急担当病院:基幹病院制か輪番制か、あるいはその併用か
(d)身体合併症対策
(e)連絡調整機能:中心的調整役の有無、連絡調整会議の構成と開催頻度
などである。さらには、
(f)対象ケース:措置入院ケースの取り扱い、人格障害や薬物依存症例の取り扱いなど
(g)搬送手段:警察や救急隊の協力体制、民間業者の委託搬送の実態など
(h)後方転送システム:転送までの期間、後方病床確保、転送手段と転送責任
(i)経済給付:補助金額、給付方法、自治体単独事業の有無と事業内容
といった項目が、システムのあり方を左右する。
 
4.提言
 当学会は、精神科救急医療に関するあらゆる問題を議論の俎上に乗せ、医療技術の向上と地域ケア
の進展を目指して発足した。したがって、精神科救急医療システムの全体について、一定のガイドラ
インを提示することが、現時点における当学会の責務であると当委員会は考える。
 ここでいうガイドラインは、システム全体に関する総論的なものから、システムの構成要素、具体
的治療技法に至るまで、重層的な構造をもつべきである。しかし、著しい地域格差があり、日々刻々
に変化する精神科救急医療現場の実状を考慮すると、当面の急務となる論題および会員の合意が得ら
れやすい論題を優先的に議論し、「急ぐこと、できること」から結論を出して行く実践的な姿勢が求
められる。
 このような認識に立って、当委員会としては、精神科救急医療システムのためのガイドライン策定
に向けて、さしあたって以下の4点を当学会に提言し、会員諸氏の議論を喚起したいと考えるに至っ
た。また、今後の議論を糾合し、具体的な施策としてまとめながら、適宜、厚生省などの関係機関に
提示して行きたいと考えている。
 
(1)精神科救急情報センター(電話相談窓口)の整備が最優先の課題である。
 精神科救急システムの入り口に位置する情報センターの機能は、その後の診療プロセスを大きく規
定する。システムが有効に機能するためには、電話相談窓口は広く地域住民に公開されるべきであ
り、24時間体制で、専門職員(PSWなど)が対応できることが望ましい。
 また、情報センターは、少なくとも、以下の機能をもつべきであり、電話対応にあたる職員には、
相応の技術が要請される。
(a)判定機能:精神科的緊急性を判定し、トリアージュできる。
(b)振り分け機能:前記の判定に基づいて、最適の受診先や搬送手段を指示できる。
(c)危機介入機能:目前の危機的状況を応急的に緩和する手だてが講じられる。
(d)情報提供機能:精神科関連の社会資源に通暁し、的確な情報を提供できる。
(e)法施行機能:29条(今後は34条も含まれるか?)関連の法施行事務を遂行できる。
 
(2)精神科救急応需病院を全国的に整備する。
 大都市圏では、あらゆる救急患者を24時間受け入れられる高規格の精神科三次救急病院を整備する
ことが急務である。その施設・設備及び人員の基準について、ガイドラインを早急に作成する必要が
ある。地方においても、このガイドラインに準じた救急病院が逐次整備され、地域全体ひいてはわが
国の精神科医療全般の水準向上に資することを望みたい。
 
(3)精神科救急システムの整備拡充事業は、大都市において急を要する。
 精神科救急システムの整備拡充事業は、精神科領域における急病対策の前進、急性期治療技術の向
上、地域ケアシステムの進展に寄与する形で全国展開されるべきであるが、とりわけ、人口の急増と
病床不足が深刻化し、従来型の医療供給システムが機能不全をきたしている大都市圏においては、焦
眉の課題となっている。
 大都市圏では、外国人やホームレス、単身の高齢者や地方からの流入者など、多種多様な背景をも
った人々が集まり、伝統的な地縁・血縁的つながりが、ほぼ失われている。こうした状況下では、精
神疾患の発症ないし再発のリスクも自ずと高まる。また、多剤薬物への依存・中毒やHIV関連の精神障
害など、従来の精神医学の方法論では対処しきれない救急ケースが増加している。
 さらに、いわゆる精神病院不祥事件が、大都市とその周辺で多発していることを指摘しなければな
らない。大阪府における大和川病院事件は記憶に新しい。その背景要因として真っ先にあげられるの
が、大都市における精神科救急医療の貧困である。
 このように、大都市圏における精神科救急医療の現場には、社会的緊張や制度的不備を象徴するよ
うな救急ケースが、連日のように押し寄せている。精神科救急システムが全国的に普及することの意
義は先に述べたとおりであるが、このシステムの整備を論ずるにあたっては、現時点で最も急を要す
る大都市の最深部に議論の照準を合わせるべきである。最悪の事態に対処できるシステムでなけれ
ば、真の救急医療システムとはいえない。また、最悪の事態を想定したシステムは、どんな地域にお
ける、どんなケースへの対処法をも包摂できるのではなかろうか。
 
(4)患者移送制度(34条)の適正な運用を図るべきである。
 このたび改正された精神保健福祉法は、第34条において、医療保護入院及び応急入院に該当するケ
ースを、知事権限で応急指定病院に移送することができると規定している。しかし、実際の運用に際
しては様々な問題が予測されており、今後の政省令策定作業に当面の解決策が委ねられている。
 当委員会としても、この問題については議論してきた。最大の焦点となったのは、診断医と治療医
の分離に関する議論である。すなわち、在宅ケースの診察と搬送業務は、往診(outreach service)
と位置づけられるべきであり、入院と搬送手段を決定した医師が、自らの所属する病院に当該患者を
入院させるべきであるとする意見(往診サービス論)と、入院を決定した医師の所属する病院と入院
先病院とを分離すべきであるとする意見(分離論)の両論があり、現時点では、当委員会としての統
一見解を示すまでには至っていない。
 
(ア)往診サービス論の論拠
 まず、往診サービス論の論拠を示す。
(a)診断医と治療医が所属する医療機関の一致は、冒頭に述べた医療の継続性と責任性を保障する。
(b)ここでいう往診サービスは、必ずしも入院を前提とするものではない。場合によっては、医療不要
を宣言したり、通院治療の説得をして帰ってくるのも、指定医の業務である。
(c)搬送の安全性を確保するための物理的・化学的拘束は、治療行為の一環として正当化されうる。
(d)診断医は要入院と判断したが、受け入れ病院の医師は入院不要と判断したような場合、混乱が生ず
る。診断医が恨まれたり、訴えられる事態が十分に予測される。一方、受け入れ病院側の医師の裁量
権を奪うわけにはいかない。
(e)入院決定と搬送業務は行政処分、入院治療は治療行為という形で業務を分離すること(現時点での
厚生省案)は、臨床的に無理があり、前項のような混乱を招くことが避けられない。特に、入院判定
に関して、入院を受け入れる病院管理者の医療判断よりも行政処分が優越すると規定するならば、深
刻な議論が起こるであろう。
 
(イ)分離論の論拠
 これに対して、分離論は、以下のような論拠で反論する。
(a)本制度が安易に適用されたり、受け入れ病院側の都合で入院の判断基準が歪められたりすることを
防止するためには、厳正中立な診断作業が必要である。この作業を保障するためにも、現行の措置入
院制度に準じて、診断医と治療医の所属病院は分離されるべきである。
(b)本制度の適用ケースは、措置入院に該当しないことを前提にしているため、全てを往診と位置づけ
てしまうと、警察が搬送業務から手を引いてしまうことが懸念される。在宅診察の時点で措置症状が
顕在化するケース(刃物を持ち出す、高層階から飛び降りるなど)も十分にありうるので、警察が関
与しない在宅診察は非現実的である。ただし、この意見は、往診サービス一元論への反論であって、
分離論の論拠ではない。
 
(ウ)人権保障の問題
 ここで人権保障の問題に言及するならば、以下の議論が成り立つ。
(a)往診サービス論は、現行の医療保護入院ないし応急入院の延長であるから、精神医療審査会への不
服請求など、現行の法体系で人権保障上の手続きが担保される。ただし、搬送の決定が妥当であった
かどうかについても、精神医療審査会の審査対象となる。
(b)分離論に立つならば、現行の措置入院制度に準ずる人権保障手続きが必要となる。今回の移送制度
は、措置入院における法的な縛り(自傷他害要件、2名の指定医の診察、緊急措置では72時間限定)
に匹敵する人権保障上の条項を欠いている。したがって、在宅診察に人権保障関係者(例えば精神医
療審査会委員の弁護士)の同行を義務づけるなどの付帯条件を設ける必要がある。
 
 以上が、移送問題に関して、現時点で、当委員会がたどり着いた議論の到達点である。今後はさら
に、受付窓口をどこに置くか、事前調査をだれが行うか、本制度の稼働時間帯をどうするか、といっ
た基本的かつ実務的な問題が議論されなくてはならない。
 
 

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